中国語を勉強してある程度のレベルに達すると、紛いながらも漢文で書かれた中国の古典を原文で読めるようになっていることに気づくだろう。杜甫や李白の詩作品は言うに及ばず、論語などの古典や般若心経などの仏典まで読めるようになる。これらには人類最高の叡智と言語の美が詰め込まれており、それが原文で読めてしまうことは中国語学習者の福利の一つと言えるだろう。もちろんそれらは古語で書かれており普通の現代中国語とは多少異なるので初めは慣れるのに少し時間がかかるが、それでも慣れてしまえば読めるようになる。

ところで、中国の古典の中でも是非その原文を読んでみて欲しいものがある。そのうちの一つが中国の誇る最高経典の一つ『老子』(『老子道徳経』、『道徳真経』とも言う)だ。今回はその原文をピンインつきで紹介したい。「タオ」という言葉を聞いたことがある人も多いと思うが、それはこの書において出てくる「道」のことだ。中国語を学習した人は是非この書を原文で読んでみて欲しい。実は『老子』の原文は(解釈の難しさは別にして)ただ単に読むだけであれば文法や語彙はそれほど難しいものではない。むしろ極めてシンプルな構文と最高に語呂の良い韻文(つまり詩)で書かれているため非常に暗唱に適しているのである。無理に暗記しようとせずとも何回か読んでいるうちに思わず口に出してしまうくらいだ。

しかしそういった言語上の興味は副次的なものであり、真に素晴らしいのはその中身である。今回は第1章の全文にピンインを付けて紹介する。第1章は『老子』全体のエッセンスを凝縮した部分だ。難解で有名な箇所ではあるが、タオ少しでも直感的に感じていただけるよう、解説を充実させたつもりである。尚、解釈にあたり参照した資料も示しておくが、それらには矛盾点も見受けられる。当サイトはそれらの矛盾を解消し、整合性の取れた解釈を打ち出したつもりである。

<原文:『老子』 第一章>

道可道,非常道。 dào kě dào, fēi cháng dào。
名可名,非常名。 míng kě míng, fēi cháng míng。
无,名天地之始。 wú, míng tiān dì zhī shǐ。
有,名万物之母。 yǒu, míng wàn wù zhī mǔ。
故常无,欲以观其妙。 gù cháng wú, yù yǐ guān qí miào。
常有,欲以观其徼。 cháng yǒu, yù yǐ guān qí jiào。
此两者同出而异名,同谓之玄。 cǐ liǎng zhě tóng chū ér yì míng,tóng wèi zhī xuán。
玄之又玄,众妙之门。 xuán zhī yòu xuán, zhòng miào zhī mén。

<解説>
道可道,非常道。 dào kě dào, fēi cháng dào。
言葉を用いて表現することのできる道は真の「道」ではない。

1つめの「道」は名詞、二つめの「道」は動詞で「言う」という意味。つまり、言葉で表現することのできる道は「常道」ではない。「常道」は『老子』を読み解く重要概念であり、老子の言う「真の道」のこと。この老子の言う「道」の性質がどのようなものなのかは後の句で比喩的に表現されていく。

名可名,非常名。 míng kě míng, fēi cháng míng。
言い表すことのできる名称は「道」の名ではない。

「名可名,非常名」は「道可道,非常道」を言い換えたもの。つまり老子の言う「道」は言語で表現できる概念よりも抽象度の高いものであることが示されている。言語は意識と関連するため、さらに敷衍すれば「道は通常の意識でとらえることはできない」ともなる。矛盾するようではあるがそれでも『老子』では言語によって比喩を重層的に組み合わせ、「道」の性質を提示していく。

无,名天地之始。 wú,míng tiān dì zhī shǐ。
「無」は天地の原始を言い表す。

「無」は事物がその具体的形態をとる前の状態。意識ではとらえられないが本質的な情報として確かに存在する状態である。この「無」は道の性質を表す重要概念の一つ。
「名」は動詞で言い表すの意と解す(伝統的には有名,万物之母という区切り方もあるが、現在の中国では「无,名天地之始」と区切る版も多い。本サイトは後者に依る)。
「始」はここでは原始(未始の状態)の意。「無」とほぼ同じ意味になる。

有,名万物之母。 yǒu,míng wàn wù zhī mǔ。
「有」は万物の母を言い表す。

「無」に対して「有」は事物が形をとることを言う。万物が実体化する原理。後の句で述べられるがこれも「道」の性質の一つである。つまり「道」が世界を生成するプロセスとして「無」から「有」への移行があると考えられ、「有」への移行が既に完了している事物は具体的な形として「有る」ということになる。
「名」は前句を踏襲し動詞の「言い表す」と解釈する。
「母」はこの後に出てくる「众妙之门」に関連する。これは第6章の「玄牝之门」(玄妙なる女性器)と同様の概念であり、この「万物之母」もこれを言い換えたものと考えることができる。つまり事物が形の無い状態から「有」へ移行するプロセスにおいて万物はこの「母なる門」を通る。第六章において「玄牝之门」(玄妙なる女性器)は「不死」であると表現されていることから、これは宇宙の本質的原理であると考えられる。

故常无,欲以观其妙。 gù cháng wú, yù yǐ guān qí miào。
常に無と一体であればまさに意識ではとらえらえない「道」の不思議な働きを見るだろう。

通常の意識状態では「道」の深遠かつ微細な働きを見ることは不可能だが、意識状態を常に「無」と同調させることでその不思議な働きを見ることができる。「故常无欲,」と区切る原文の版もあるが当サイトは「故常无,」と区切る。この場合「欲」は現代中国語の「要」に近い意味にとらえる。また、「妙」も「道」の性質の一つであり、不思議かつ幽遠でとらえられないもの。

常有,欲以观其徼。 cháng yǒu, yù yǐ guān qí jiào。
常に「有」と共にあればまさに万物の境界を見る。 

「徼」は端、境界線。もっと抽象的に言えば区切りのこと。「有」に生成された事物には必ず「区切り」「境界」がある。言語による表現や名称も概念を「区切る」ことに他ならない。万物具現化の原理としてこの「区切る」作用があると考えられ、その作用を成すのは「門」であると考えられる。それに対し「無」の性質である「妙」はまだ門を通っておらず区切りの無い状態。区切りがないがゆえに一体的である。

此两者,同出而异名,同谓之玄。 cǐ liǎng zhě tóng chū ér yì míng,tóng wèi zhī xuán。
「無」と「有」は名称こそ異なるが同じ「道」から出てきた玄なるものである。

宇宙の原始としての「無」、万物実体化の原理としての「有」は同じ「道」から出てきたものでどちらも深くかつとらえがたい玄なるものである。

玄之又玄,众妙之门。 xuán zhī yòu xuán, zhòng miào zhī mén。
奥深くとらえられない玄のまた玄、衆妙の門。

「众妙之门」は「万物之母」と同様の概念であることはすでに述べた。「衆」はすべての事物、「門」は万物が実体化する際に通る道。最後の句もこの「門」という言葉で終わっていることから「道」の比喩としては非常に重要なものであることが伺えよう。

<訳文>
言葉を用いて表現することのできる道は真の「道」ではない。
言い表すことのできる名称は道の「名」ではない。
「無」は天地の原始を言い表し
「有」は万物の母を言い表す。
常に無と一体であればまさに意識ではとらえらえない「道」の不思議な働きを見、
常に「有」と共にあればまさに万物の境界を見る。
「無」と「有」は名称こそ異なるが同じ「道」から出てきた玄なるものである。
奥深くとらえられない玄のまた玄、衆妙の門。

<参考資料>
蜂屋邦夫訳注 『老子』 岩波書店(2008)
千贺一生著,陈雪译 《老子的密语》 金城出版社(2011)
千賀一生『タオの暗号』 ヒカルランド (2011)
李中华主讲《道德经》系列视频课程
http://baike.baidu.com/redirect/614fVsF0Vov9eCE1eC40NP2ci2-aiVxV0pJ8bLxXSkVMOV2pvPlTF_RrXNoQ7gPQACg1b3AhnaLVW6I2v8lAF-r9-qz7paWpfFGJAKdnHwz-

次の記事はこちら
『老子』第21章「恍惚のエクスタシー」
「タオを応用した高次元の問題処理方法とは?」
岩波文庫 老子