語り部:淘翁(タオ)

「故人西の方黄鶴楼を辞し」という出だしで始まる李白の『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』はあまりにも有名な漢詩じゃの。無論わしも大好きじゃ。中学校の教科書で暗唱したという記憶のある人も多いじゃろうな。ちとこれを中国語で読んでみたいと思う人もいるじゃろうからピンインを付しておいた。わしの解説もつけておるが、世間一般で言われている解釈とはまた違ったものになっておる。時間のある人はリラックスしてわしの話に付き合ってくれるとありがたい。

孟浩然之廣陵 
sòng mèng hào rán zhī guǎng líng

故人西辭黃鶴樓,
gù rén xī cí huáng hè lóu ,
煙花三月下揚州。
Yān huā sān yuè xià yáng zhōu 。

孤帆遠影碧空盡,
gū fān yuǎn yǐng bì kōng jìn , 

唯見長江天際流。
Wéi jiàn cháng jiāng tiān jì liú 。

【書き下し文】
故人西のかた黄鶴楼を辞し
煙花三月揚州に下る
孤帆の遠影碧空に盡(つ)き
唯見る長江の天際(てんさい)に流るるを

【現代語訳】
わが友人の孟浩然はここ黄鶴楼を去り
春霞の中を花が咲き乱れるこの三月 揚州へと下っていく
舟影が遠のき翠色の空に消え
私は長江が天空まで流れていくのをただ見るばかりだ

フォッフォッフォ。普通に読んでもダイナミックかつ眩暈のするほど美しい詩じゃ。それほど難しい詩ではないので書き下し文と現代語訳で意味は分かるじゃろう。じゃがこの詩を理解するにあたっては、孟浩然のことを知っておくとより深い理解が得られるじゃろうな。というのも、この詩全体で孟浩然という人物の特徴を表現しているとも言えるからじゃ。じゃが、そもそも孟浩然とはいかなる人物なのか?教科書的な説明もできんでもないが、ここは一つ李白自身に語ってもらおうかの。実は李白は『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の他にもこの人物について讃える詩を書いている。否、讃えるというレベルではなく、もはや崇敬の念を抱いていると言ってもよい。『孟浩然に贈る』という詩じゃ。

贈孟浩然
zèng mèng hào rán

吾愛孟夫子,風流天下聞。
wú ài mèng fū zǐ , fēng liú tiān xià wén 。
紅顏棄軒冕,白首臥松雲。
hóng yán qì xuān miǎn , bái shǒu wò sōng yún 。
醉月頻中聖,迷花不事君。
zuì yuè pín zhōng shèng , mí huā bù shì jūn 。
高山安可仰,徒此揖清芬。
gāo shān ān kě yǎng , tú cǐ yī qīng fēn 。

【書き下し文】
孟浩然に贈る
我は愛す孟夫子(もうふし)風流天下に聞こゆ
紅顏(こうがん)軒冕(けんべん)を棄て 白首(はくしゅ)松雲(しょううん)に臥す
月に酔いて頻りに聖に中(あた)り 花に迷いて君に事(つか)えず
高山いずくんぞ仰ぐべけんや 徒にここに清芬を揖(ゆう)す

【現代語訳】
私の愛する孟先生 その優美は天下に知れ渡っている
若かりし日には官職を捨て 現在は長寿となって自然の中に臥している
しばしば月に酔っては酒を飲み、君に仕えるよりも花の美しさを愛でるのに忙しい
まるで仰ぎ見ることすら恐れ多い高山 私はただここからその香気に敬意を表すことしかできない

少し見慣れない語があるので解説をしておこうかの。

吾:現代中国語で言う「我」と思ったらよい。「我」はニュートラルなニュアンスじゃが、「吾」はやや自分を強調する。日本語でいうと「僕は」といった感覚かの。
紅顏:ここでは血色のいい若者の顔のことじゃ。
白首:白髪頭ということじゃが、もうちょっと詩的な表現じゃの。若さを表す紅顏と対比しとる。
軒冕:高官の乗る車と高官のかぶる冠。つまりは官職の暗喩じゃな。
揖:敬意を表すために両手を胸の前で組み、囲みをつくった形にする。中国の礼法の動作じゃ。

見てのとおり、こちらの詩では孟浩然のことを先生と呼ぶのみならず「仰ぎ見るのも恐れ多い高山」と表現しておる。この孟浩然という人物、どうやら仙人を地で行くような詩人のようじゃの。実は李白だけでなく杜甫も孟浩然についていくつか詩を書いておるのじゃが、くどくなってしまうので引用はせん。孟浩然の詩の一句一句は後世に伝えていく価値が有ると讃えた。中国の歴史上最高の存在と言われておるこの2詩人が揃って尊敬するだけあって孟浩然の詩は実際に素晴らしいぞ。読むだけで心が清らかになるような詩をおおく残しておる。仏教や道教にも造詣が深かったと見える。実は以前に英華宝でも1つ詩を紹介しておる。時間のある人や瞑想に興味のある人は呼んでみるといいじゃろう。

【漢詩でアファメーション風水/中国語】心を清浄な境地にする孟浩然の「題義公禅房」を読んでみよう

さて、この李白のイメージを踏まえて『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』をもう一度読んでみると詩から孟浩然の姿が再構成されて立ち上がってくる。

春霞のようにとらえがたく、自然の美しさを何よりも好む隠者のような人物
遠い天に流れていく大きな水の流れのような存在
清らかなオーラを湛えた老賢人、仙人。

孟浩然はきっとそんな人物だったに違いない。
こういう読み方もわしは大いにありじゃと思うが、どうかの。フォッフォッフォ。