語り部:陶翁

弘法大師空海。と言えばもう説明不要じゃな。日本の歴史に燦然と輝く天才僧じゃ。実はこの空海は相当な量の漢詩を残しておるんじゃが、なぜかあまり紹介されておらん。というわけで、わしが取り上げてみようかと思っておる。何?あの空海の詩が読めるなんてわくわくする?ホッホッホ。じゃ、早速ちと読んでみようかの。空海の七言絶句、「南山中新羅道者見過(南山中に新羅道者を見過す)」じゃ。ピンインをつけるので声に出して読んでみて欲しい。中国語で読んでも全く違和感がないことが分かるじゃろう。

南山中新羅道者見過 nán shān zhōng xīn luó dào zhĕ jiàn guò

吾住此山不記春 wú zhù cǐ shān bù jì chūn
空観雲日不見人 kōng guān yún rì bù jiàn rén
新羅道者幽尋意 xīn luó dào zhĕ yōu xún yì
持錫飛来恰如神 chí xī fēi lái qià rú shén

<書き下し文>
吾(われ)此の山に住みて春を記(おぼ)えず
空(むな)しく雲日を観れども人を見ず
新羅の道者 幽尋(ゆうじん)の意あり 
持ちたる錫(しゃく)の飛来するは恰(あたか)も神の如し

<現代語訳>
この山に住んでいると春がいつ来ていつ去ったのかもわからない。
空しく雲日を見るばかりで人にはほとんどお目にかからない。
珍しいことに新羅の修験者が奥深く静かな境地を求めて来た。
高く掲げた錫杖が空を切る様子はあたかも神のようである。

<単語/解説>
:我よりもやや自分を強調する言い方。「ぼく」などに近いかの。
不記春:春を記せずと読んでもよい。この山(高野山)は春がいつ来ていつ去ったのかわからないくらい春が短く感じられる、という意味じゃろう。春を色欲と関連させてもよいかも知れん。
空観:書き下し文では「空(むな)しく雲日を観れども」としたが、空観はすべての事物は本質を持つ実体として存在しているのではないという意味の仏教用語でもある。
道者:仏道の修行者や修験者。
幽尋意:奥深く静かな趣を求める心じゃ。
:修験者の持っている杖みたいなやつじゃ。

第三句目(転句)までは解釈にそれほど苦労しないが、最後の「持錫飛来恰如神」はちとわしには意味がうまく特定できん。錫(錫杖)はその道者が手に持っておるわけじゃから、「飛来」は空を飛ぶという意味ではなく、歩きながら空を突いている様子を言ったものと推測するほかない。その道者の様子をして「神の如し」と言っておるのじゃが、ここで言っておる「神」はいわゆる絶対者、天の神ではなく、その驚異的な精神、気迫、表情(顔つき)などに神掛かったものを見た、と言っておるのかも知れん。

どうじゃ。これが空海の七言絶句じゃ。実は日本にも優れた漢詩作品は多くあっての、本場中国においても名作とされ得る作品がたくさんある。また別の機会に紹介してみようと思っておる。

中国人も号泣?!弘法大師空海の七言絶句「青龍寺にて義操阿闍梨に留別す」をピンイン付きで読む!

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