前回の投稿で中国最大の検索エンジン「百度」の由来となった辛棄疾の詞『青玉案(元夕)』を紹介し、反響をいただいた。唐詩と並び中国の韻文文学の最高峰である宋詞において辛棄疾は蘇軾と並び称されるほどの大家であり、紛れもなく中国文学の最高峰の一端を担う人物であるにも関わらず、なぜかその名もその作品も日本ではほとんど知られていない。というわけで、当サイトを通して知っていたければ幸いだ。今回は彼の『生查子(独游雨岩)』という詞を紹介する。躍動感溢れる鮮やかな映像美と孤独の叙情が一体となった辛棄疾の最高傑作のひとつだ。非常に面白いビジョンを体感できると思うので、試しに読んでみて欲しい。直接原文を読み込むのが難しくても、書き下し文と解説で十分意味を理解できるので、是非読んでみて欲しい。

現代中国語で読みたい人のためにピンインも載せておいた。

【原文】

「生查子 独游雨岩」
渓辺照影行 天在清渓底

天上有行雲 人在行雲裏
高歌誰和余
空谷清音起
非鬼亦非仙 一曲桃花水

【書き下し文】

「生查子(せいさし) 独り雨岩に游ぶ」
溪辺(けいへん)に影を照らし行く 天在り清溪(せいけい)の底

天上に行雲(こううん)有り 人 雲裏を行く有り
高き歌 誰か余(われ)と和さんや
空谷(くうこく)に清音(せいおん)起こる
鬼に非ず仙にも非ず 一曲の桃花水

【現代語訳】

溪に沿って歩いていると、澄んだ水が私を照らし映し、清らかな水底が青空を逆さに映している。
天には流れ行く雲がある。水に映っている人(私)は雲の中を歩いているようだ。
誰か私と一緒に高らかに歌ってくれぬものか?
人気のない谷から伝わり来る清く快い響き
それは霊の声でも神仙の声でもない
春水のせせらぎの音だ。

【解説】

水に映る青空を描くことで空水の清らかさと透明度を描くのみならず、水中に流れる雲の中を自分が歩いているという斬新で鮮やかなビジョンを現出させている。また、水流、流れ行く雲、歩いている自分というムーブメントを組み合わせることによってその流動感と躍動感を疑似体験したかと紛う程臨場感のある視覚的効果が生じていることにも注目されたい。
同時に作者が描写しているのは自分の「影」逆さになった「天」漂白する「雲」流れゆく「水」など、皆実体なく流転する万物であり、これが孤独の叙情と深く結びついていると思われる。「高歌誰和余」はそういった感情の率直な表現だろう。

【単語解説】

1.生查子:詞牌の名。詞牌は簡単に言えば曲名。詞は曲名に合わせて作られる。
2.雨岩:江西省にある博山 
3.行雲:流れ行く雲
4.人在行雲裏:ここでは人在行/雲裏と捉える。人が雲の中を歩いている。
5.和:第二声ではなく、第四声でhèと読む。第四声の和は、調子を合わせる、一緒に歌うという意味となる。
6.空谷:広々として人のいない谷。
7.清音:澄んで耳に快い音。
8.鬼:日本語で言う鬼というより心霊の意味に近い。
9.一曲桃花水:桃花の季節の流水。曲は量詞

【原文(簡体字)/ピンイン】

生查子(独游雨岩)
溪边照影行,天在清溪底。
天上有行云,人在行云里。
高歌谁和余?
空谷清音起。
非鬼亦非仙,一曲桃花水。

shēng chá zǐ
xī biān zhào yǐng xíng , tiān zài qīng xī dǐ 。
tiān shàng yǒu xíng yún , rén zài xíng yún lǐ 。
gāo gē shuí hè yú ?
kōng gǔ qīng yīn qǐ 。
fēi guǐ yì fēi xiān , yī qū táo huā shuǐ 。